『羊と鋼の森』について
現代小説 ☆☆☆☆☆:奇跡
森の匂いがした。秋の、夜に近い時間の森。風が木々を揺らし、ざわざわと葉の鳴る音がする。夜になりかける時間の、森の匂い。
ーー宮下奈都『羊と鋼の森』
先日、この小説を読み返している際に「美しい」「素晴らしい」といった感想と一緒に「完璧」という言葉が浮かんだ。小説を読んでいて初めて浮かんだ感情だった。完璧な小説。完璧な文章。そもそも小説における完璧さとは一体なんだろうか。主人公の外村青年と同様、僕も大きな森に迷い込んだ。
ゆるされている。世界と調和している。それがどんなに素晴らしいことか。言葉で伝えきれないなら、音で表せるようになればいい。
高校生の時、偶然ピアノ調律師の板鳥と出会って以来、調律の世界に魅せられた外村。
ピアノを愛する姉妹や先輩、恩師との交流を通じて、成長していく青年の姿を、温かく静謐な筆致で綴った感動作。(amazonより)
文章の完璧さについて、村上春樹がこんなことを言っている。
「文章という不完全な容器に盛ることができるのは不完全な記憶や不完全な想いでしかない」
なるほど、と思う。確かに突き詰めて考えれば、もしかしたらこの世界には完璧な文章など端から存在しないのかもしれない。しかし僕は、実際に「羊と鋼の森」の世界に溶け込み、主人公の目を通してあたたかなミルク紅茶に癒され、泣き叫ぶ赤ん坊の眉間の皺に触れ、ぽやぽやと光る枝の先に心を奪われた。艶のある文体、洗練された世界観に魅了された。
でもさ、俺たちが探すのは四百四十ヘルツかもしれないけど、お客さんが求めているのは四百四十ヘルツじゃない。美しいラなんだよ。
先輩調律師である柳の言葉は、完璧さについて考える僕自身に向けられたもののようだ。この小説は、あるいは完璧ではないのかもしれない。その文章も、あるいは完璧ではないのかもしれない。それでも、たとえ一文一文が不完全であったとしても、丁寧に紡がれた文章が織りなす立体的な世界は、そしてその美しさは、完璧なものであると確信を持って言える。
風が吹いて、森の匂いがする。葉が揺れ、枝が擦れる。エゾマツの葉が緑のまま落ちるとき、音階にならない音がする。幹に耳を当てると、根が水を吸い上げる音がかすかに聞こえる。カケスがまた鳴く。
知っていた。知っている。叫び出したくなるような気分だった。エゾマツの鳴らす音を、僕は知っている。だから懐かしいのか。だから惹かれたのか。
ピアノの原風景を、僕はずっと知っていたのだった。最初の楽器は、森で生まれたのかもしれない。
山で暮らし、森に育てられ、特別な音感も音楽的資質も持ち合わせない主人公はずっと、何者でもない自分に対して苦しさを感じていた。しかし物語の最後で、何もないと思っていた森に、なんでもないと思っていた風景の中に、すべてがあったと気づく。なんと素敵なことだろう。
この作品の世界に僕が感じた完璧さも同じものなのだと思う。小さな町の小さな楽器屋、ピアノの中、あるいは音色の一粒の中に、どこまでも広く完璧な世界がある。その素晴らしさを「羊と鋼の森」は教えてくれる。今年中にもう一度再読せずにはいられない。